「巨瀬町の歴史散歩」

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二、柳

1、柳の名称について

  言い伝えによると、「やなぎ」という屋号の家(森本)とその川向こうに「わたり」という屋号の家(川口)があるが、その昔ここに大変大きな柳の木があったそうな。それを京都の三十三間堂に寄付しようと思って切ったところ、川を越えて向こうの家まで木の先がとどいた。そこのその家の屋号が『わたり』になったという伝説があり、柳というのはその大きな柳の木が起源といわれている。

2、古 墳

  この柳地区は日当たりが良く、谷川に沿うていて水利に恵まれ農地も広く住み良いところなので、昔から多くの人が住み着いていたらしく、綱島孝司氏所有地の畑の中から、昭和33年(1958)1m余りの巨石を積み重ねて造った長方形の、朱色の壁で造った立派な古墳が発見され当時の話題となった。立派な祭具の古陶器。矢じり。武具。勾玉等は倉敷考古館に保管されている。(家前古墳)

3、弘法大師杖の跡

 柳下組の塩谷が有漢川に合流する地点の東側の突き出たようになっている高い土地の一部に石仏群が祭ってあるがその中に「宝暦九卯天(1759)七月吉日」という碑面文字の石碑があり、その下の台石に「此右弘法大師杖の跡」とあり、弘の字の右側に直径四cm位の丸い凹がある。この凹が大師の杖の跡であるとの言い伝えです。

4、柳橋の蛍(巨瀬八景)

 柳橋は夏の納涼観蛍の名勝地として大正元年発行の上房郡誌以来世人の注目を集め、観光客に称賛されていた。ところが現在は、農薬・樹木の繁茂状態・ニナ貝の生育状態等の関係で蛍の数が減少してしまった。しかし最近、橋の下手の方には可成の蛍を数えるようになってきた。6月20日頃が蛍の時期で、最盛期には美しい眺めが帰ってきつつある。この景色が長く続くように努力したいものだ。

5、塩  谷

 柳の下組に、有漢川へ東方から流れ込む塩谷という支流の谷川がある。ちょっと変わった名前なので不思議に思うのだが、この塩谷は昔巨瀬方面へ瀬戸内梅の製塩地から塩を牛の背に乗せて運んだ道だ。児島−足守−大和−大村と一直線に通じていて、宿場町塩坪から近隣へ配給されていた。途中賀陽町と高梁市との「境界争い」の後の文書が見つかり、現場を見直す機会になったようだが、一度決めた境界についてはなかなか元には返せないようだ。