「巨瀬町の歴史散歩」
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十六、其 尾
1、其尾の名称について
其尾は昔は園尾と書いていた。其尾の其はつまり祇園の園であって、祇園の麓祇園の尾根という意味であろうと思われる。
2、其尾の小地名について
昔より何かの事件・行事などが起きたところをわかるように、また記憶をよみがえらせるための言い伝えが地名などに残っている。 又森康次氏宅の屋号を「的場」という。宅地内に高さ2m、周囲8mのこんもりとした山があり、藤森 薄氏宅付近に「陣」という所がある。この付近から弓矢をいたといわれている。また、「殿家市」という地名の中程に長さ13m・幅1m50cm。深さ80cmの「長掘」という池があり戦国の世に兵士が通り掛かり、馬の蹄を冷やしたという言い伝えがある。
3、岩山神社と園尾寺
明治四年村社から郷社に昇格したが、明治40年には神饌幣帛料を供進する神社に指定され、毎年例祭、新嘗祭、祈念祭当日供進使巨瀬村長が参向し、幣帛料及び神饌料金30円をを供進された。
4、岩山神社裏山の化石
大正6年11月岩山神社境内拡張工事の時、裏山から「二枚貝の化石」が発見された。しかしその後その化石の現物がどこにも無くなり「幻の化石」となっていた。 そこで昭和45年9月19日野口公民館長が、神社総代藤森音吉、塩坪牧 義夫、其尾藤森仙太郎の三氏の協力を得て、この化石発掘作業を行い多数の、形があまり大きくない二枚貝の化石を発見した。そしてその中の化石のついた大きな石二個を岩山神社に所蔵をお願いし、他の化石は同月22日岡山大学地質学教室に現物を持参して鑑定を依頼し、次のような結果を得た。これは千万年〜二千五百万年前の中新生時代海成層の化石で海生貝赤貝に類する「あなだら属の貝」である。淡水貝は種類が少ない限定されたものとなるが、其尾化石は海生貝で種類が多い。外国には二億年前のものでも其尾化石のような現物貝のものがあるとのことであった。其尾の近くの塩坪の塩について質問したところ日本には岩塩は無いとの事であった。
5、千人塚について
戦国時代尼子軍を打ち破るため、松山勢が進出して激しい合戦になったが、松山勢の軍多く尼子軍は、力尽きて多数の死者を出した。死者の為に塚を作って弔った。その塚を「出雲千人塚」とだれいうとなくそう呼んでいる。現在は、山の中であるが、かって小石が山のように積み上げられていたとのことである。