「巨瀬町の歴史散歩」
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十三、塩 坪
1、塩坪の名称について
昔から塩は人間生活にとって欠くことの出来ない重要貴重な必需品である。塩坪は海とは遠く離れているが、幸い「塩谷」と言う重要な搬入路を確保していて、昔から不自由なく塩を手に入れていて、近郷への配給地としての宿場町であった。また、昔古老から聞いた話によると、塩坪というのは裏手の山に、昔、其尾が海であった頃の産物なのか塩のでる一ケ所があったとのことで、その名が生まれたと言う事を聞いたことがある。真偽の程は別として塩と関係の深い土地であったことは間違いないと思われる。しかしながら、塩坪の山側の宅地や田では1mも掘れば池底のような青味がかった土で、いまだに田の一部には竹が渡してあって、その竹の上を田下駄をはいて田作りをした跡が残っている。なお、古道といわれる道(現在の農道)のすぐ下には石囲いのある水洗い揚が埋まっている場所がある。これらのことから縄文海進前後の時代の様子から塩坪の回りは、池とか沼とかまわりの地区より遅くまで水が残っていたのではないかと思われる事象が見られる。一方、川を挟んで山寄せ側は、有漢川にも見られるように、花崗岩の堅い岩石がのぞいていてその境は現在の市道あたりではないかと考えられている。また、国道バイパス工事の時に、30cm位の幅に花崗岩が斜めに割れていて小石のようになった層がありその辺りは、古く土地が崩れて川まで届いたこともあるし、また、一方反対側の山でも古道まで山土が滑り落ちたと言う事も、そう遠くない時代に起こった事柄である。いずれにしても、地質の異なった様子が方々でうかがえる。
2、古墳の多い所
塩坪は、気候風土、交通などあらゆる点で人々の居住に適し、大昔から地方の中心地として栄えた所でもあるし一方古墳も多い。川東の方面には「塚野呂」から「塚前」へと古墳が続き、川西の方面には、「ツンゴエ古墳」から飛鳥時代の「若宮古墳」へと古墳が多く、昔から人々が住みつき、生活をしていた場所として考えられはしないだろうか。
3、塩坪八幡神社の出土品祭祀壇
神社の創建が大変古く貞観六年(864)と聞いているが、それを物語るかの様に、ここの境内を参拝道工事等で手を入れると、大昔の土器などの破片がよく発見される事がある。粗末にしないためにも祭壇を設けて保管してある。
4、火の用心全国表彰
昭和62年2月19日、日本防火協会長で当時全国で著名な青少年健全運動指導者であった笹川良一先生が高梁市へ指導に来られたので、その時消防団巨瀬分団長 畑 勇二郎氏と巨瀬公民館長 野口喜久夫氏の名で、笹川先生に塩坪子供会の「夜廻わり火の用心活動と塩坪地区の「防火活動火の鋒(みさき)様祭り」のことを紹介したり、今後の指導についてお願いしたが、先生から大変喜んで頂き、平成元年2月17日には笹川会長から全国表彰の賞状を頂いた。昭和16年(1941)1月から始まり、その後雨の日も風の日も、正月にも、一日も休むことなく、火の用心の夜回わりを続け、平成七年四月三十日には、五〇周年記念式が行われた。しかし、夜回りをする子どもの数も減少を続けているが、現在も続いている。 (記念式、みこし)
5、塩坪組合の防火活動
塩坪の町が大火災で全焼したのは、天保十二年(1841)二月十五日であった。古老の話をまとめてみると、次のようになる。お伊勢まいりから主人などが帰る日なので、風呂を沸かして迎えに出てどのくらい時間がたったのか、その間に風呂の火がまわりに燃え移りそれが大火事のもとになったらしく、塩坪の町並がはとんど焼けけ落ちてしまった。そこで「もう二度とこんな悲しい火事を起こしてはならない。」と町の裏山に防火の神様「火の鋒様」をお祭りし、出火日の2月15日(旧暦)を祭日とし、部落回り持ちで掃除をして清め、神官を招いてお祭りし、その日を塩坪全戸「風呂をたかない日」と定め、全町火難防除を誓い合い、今年で百六十年それが続いているが、それ以後、明治28年7月16日馬の背中に積んでいた北房の高岡神社に奉納する花火が爆発して火事になったぐらいで大火事は起きていない。
6、水落堂の観音さまについて
上塩坪の水落堂は、初め現在の場所より下の方で、国道313号線の下ほぼ中央の地に祭ってあった。この水落堂には、観音さまが安置されていた。しかし、この観音さまは、いつの頃かさだかでないが、上塩坪の塩森橋のしもに淵があるが、この淵に観音像が流れ者き、誰かが拾い上げて、水落堂に祭ったという言い伝えがあるところから、その淵を誰いうとなく「観音淵」といっている。