「巨瀬町の歴史散歩」
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十五、畑と友末
1、友末の名称について
昔は畑の「上山」に対して「下山」といっていた。友未という屋号の家があるが、その家は友未坂の下のほうにある。これらのことから考えて、ともすえ(友未)は、とますえ(苫末)から転化したものではなかろうか。つまり坂を屋根にたとえて、とま(藁でつくった屋根)の末(端)(下)という意味から付けられた名前ではと考えられている。
2、火の鋒さま
友末の平尾地区の山には、火の鋒さまを三社祭ってある。この社は、個人でお祭りをしている。平尾側は日当たりが良い土地であるが、水に不便な土地である。その意味で平尾側の人々は平素より火に対する注意に特に気を配っている。火を出すと大変な事になりかねないので平素から火の鋒さまに安全を祈願している。今から二百年前に平尾側全戸焼け落ちた事からこのようにお祭りをしているそうだ。
3、産(うぶすま)荒神さま
友末部落の産荒神さまは、国道313号線沿いの友末集会場の近くに、一段と高い所に敷地があり、小祠がある。
4、国司神社の亥子祭りについて
古くから国司堂といっているが、祭神は定かではないし、昔の国司の役所があった様子国司が地方を巡幸されたおりに、お立ち寄りになったのか定かではない。国道313号線の友末地内にも国司橋もあり、その由緒は深いものを感じる。古来より国司神社のお祭りは、年二回あって、春は六月の巳の日を祭日と決め、キュウリのお供えをして、氏子が参拝し祈念をする。あき十月の亥の日と定め古くから陰地の大内神官にお祭りの営みを受け持っていただいている。十月に亥の日が三回ある場合は中の亥の日、二回の場合は初の日と定められていた。時のながれには逆らえなく、春は旧六月一日、秋は大体において十月初めの日曜日を選び神官接待は氏子回り番で受け持って、春秋のお祭りの世話役も一年交替で行っている。広い世間では、「秋の亥の子」を非常に重く感じて信神されているとか、秋の亥の日から炬燵も出されるとか聞いたことがある。
5、畑の名称について
畑は見たままの状態を率直に述べたものではあるまいか。今は揚水の機械が発達し、自由に川水が高い所へ揚水出来るが、昔は川水を畑に揚げることは容易には出来なかった。見破す限り畑ばかりで田の無かった様子が地名になったのではあるまいか。
6、友末堂奥の院の昆沙門さまについて
友末堂から畑部落へいくと、友末堂奥の院として祭ってあるお大師堂の横に、昆沙門さまを安置してある。この毘沙門さまは、其尾部落の的場堂に安置されていたそうな。その昔、畑部落の博打ずきの人が、其尾部落の人と的場堂で博打を打って畑部落の人が勝って、お堂の「毘沙門さま」を持ち帰り祭っていたところ、夜になると家鳴りがしてねられないので、お大師堂にお祭りをしたという。 ところが、誰いうと無く「昆沙門さま」は、御利益があるとの評判になり、いつのまにか盗み取られていた。そのため、部落中大騒ぎになり、いくら探しても見つからず、当分の間あきらめていたところ、風の便りに「高梁の下の万にある」と聞きつけ、畑部落の人が迎えにいったところ、高梁の段の轟橋(がらがらばし)の元に置いてあったと言う言い伝えがある。