「巨瀬町の歴史散歩」
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八、茶屋と和名谷
1、茶屋の名称について
現在の陰地から中井へ通じる県道が今は祇園寺へ参詣の本道であるが、この線は昔は細い険しいへんな道であった。それに比較してかなり巾の広い昔としては大きな古い道が茶屋の一部に残っており、その旧道の傍らには今も嘉永七年建立の大変大きな祇園宮の常夜灯が立っている。そのことから考えて、昔は祇園寺への参道は家近あたりから茶屋・和名谷を経て祇園寺・津々から中津井へ通ずる六名中津井線が多く利用されたのではあるまいか。その場合、茶屋は祇園寺へ参詣の行き帰りにちょうどよい休憩の場所になったと考えられる。そういう休憩所(茶屋)から出た名前ではあるまいか。
2、和名谷の名称について
和名谷は、昔は「ワナダニ」といわないで「ワンダニ」といっていた。たぶん周囲の山が高くてお椀をおもわすような谷という意味からの名前ではあるまいか。
3、和名谷黒土の上人塚について
「和名谷の黒土の小高い丘に偉いお坊さんのお墓がある。」という地域の人の話があったので木立ちの中を尋ねてみた。 高さ約1m50cm程の墓標には『大阿闍梨宥賓上人位』と刻んであり、文明年ニ寂ス と右側に刻んであり、左側に今天明元丑二月八日 三百拾四年當たり と刻んである。 文明年は1469年であり、天明元年は、1781年であり、三百十四年富りと刻んである年代とはぼ一致しているが、地区の人に尋ねてみた。詳しい事ではないが、文明の頃揮いお坊さんが死んだ後、長い間そのままになっていたらしく、地区の人々の上人に対しての想いがあって三百十四年もすぎてこの塚を建てられた事は、上人さんが当時この地域に親しみ多い人であったのでは………と考えられる。
4、六名谷の鬼つぶし
六名というのは茶屋・家親・野前辺りを一体とした昔の六名村のことをいうのであるが、この地方は近郷に名高い花崗岩の名産地で門柱・記念碑等となって各地へ盛んに売り出された所である。この石にまつわる伝説は昔から色々といわれている。この旧六名村の茶屋には昔鬼が石を投げて谷をつぶしてしまったという「鬼つぶし」という所がある。事実大変な石で埋まっている。この鬼が石を投げ合ったという石合戦は、祇園山の鬼と賀陽町椿(石の産地)の鬼とが勢力争いから石を投げ合ったという伝説である。又 一説には六名谷の美しいお姫様の歓心を得るために祇園山と秋葉山の鬼が石を投げ合いその石が六名谷を埋めたともいう。又 こんな話もある。祇園寺の仁王様と高倉町の建長寺の仁王様が力比べの石投げをして、祇園寺の石が松原町神原字石迫(いしざこ)に落ち建長寺の石が六名の「鬼つぶし」に落ちたので、どちらにも石がたくさんあるのだといわれている。
5、祇園寺
祇園山々頂を一周して、八葉の尾根を登り下りして八十八か所の霊場がある。慶応年間巨瀬・有漢・川面・中井等々近郷の篤信の有志たちが、本州四国の弘法大師勧精の霊場中、受持ちの番霊場に参り、霊場開設分身の認可を得、土砂の分与を授かり、祇園山に霊場を定め本尊像と大師像の石仏を安置、開眼勧精されたものが「ミニ八十八か所巡拝霊場」である。昭和三十年頃までは、年二回春秋に「お山開き大巡り」がおこ なわれていた。近年は春旧暦三月四日にお山開き大巡りがあり、多くの方々の同行二人の聖業を奉修されている。開設されてより百三十余年の年月を経てはいるものの、寄進の刻字詳らかならず、判明しにくいことはまことに残念なことだ。
なお、祇園寺にはつぎのような文化財がある。
石造宝塔(県文化財)
天狗杉(市文化財)
千手観音(市文化財)
仁王尊(市文化財)
6、祇園寺の花火と踊り
毎年8月27日の夜行われる花火と踊りは昔から大変有名で、備北地方最大のものといわれる。祇園寺の境内からは、吉備高原の山々が、特に平成九年に開通した岡山自動車道が、真向こうに通っているのが分かり、またそれらが一望に収められる景色を楽しむことができる。あの有名な花山院もここに泊まられて「山間の霧をさながら海と見て、浪かと思う峰の松風」と詠まれたくらい、昔も今も景色は変わるけれどそれぞれの眺めが、楽しめるようだ。
7、和名谷観音堂
和名谷よりコイ峠千柱寺へ越す途中字大成の地に観音堂がある。かなり昔に開設されたものと思われるが、六名村・川面北部を含め「六名観音三十三か所巡拝霊場」があり、祇園寺を一番とし、六角・古城・横田・仲畝・国時・川面・六名・茶屋・和名谷・千柱寺を三十三番の止めとした。 六名観音霊場あり、八月初め旧八月一日に大巡りがあり、各地で「やきごめ」の接待が出されていた。その三十二番が「和名谷観音堂」となっている。
8、茶屋・高田(こうだ)大師堂
川面六名から祇園本坂に至る参道の茶屋の高田に大師堂祇園寺別当所のお堂があり、高さ1m50cm、幅1m余りの大きな自然石に弘法大師の入定の御影を彫りこみ、本尊とし脇仏に「観音様」「薬師様」などをお祭りしてあるかなり大きなお堂でこのお堂は六名西国三十一番霊場になっている。昭和十年頃までは、打上げ花火や、仕掛け花火もあり、踊りも盛大に奉納されていたと古老の話があった。今では、豆腐屋の大本家島田家発願になり各地区世話方により、年一回法要が行われている。